09. 能褒野王塚古墳 ~ヤマトタケルノミコト説話①
古代史には少しの興味があります。
そもそも寺社の趣、匂いがたまらなく、
となると自ずと、
そこで祀られている神様やご由緒も気になりはじめ、
至るところ「開運」にも興味がわいております。
そんなこんなで不勉強ながら古代史もかじってみたら…
と思い立ち、
記紀を始め、歴史家さんや小説家さんたちの見解など、
ちょこちょこと目を通すようになりました。
私のひとりごとですが、
日本の歴史というものは上手くできた
まるで物語のような。。。
下手な現実は、例えば時の権力者なるものに
たびたび書き換えられていたりするのでしょうか??
なんて思いがよぎってしまいます。
百聞は一見に如かず。
本を読んでは著者の知識を拝借しつつ、
実際に寺社を訪れては、
古代史の真相に触れてみましょうか、
となんちゃって史家気取りも楽しんでみたり。
前置きが長くなりました。
さて、今回はたまたまの都合で通りかかった三重県。
せっかくの機会です。寄ってみました。
現在宮内庁に比定されている、
「能褒野王塚古墳」へ!
ご存じですか、この場所。
日本古代史の中で最もその存在に不明なことが多いとされる
ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭建命)
がこの地「能褒野(のぼの)」で亡くなられたと言われています。
(「古事記」では「能煩野」とも)
ちなみに古墳周辺の敷地は
「のぼのの森公園」となっていました。
駐車場の案内板です。
そして公園周辺は…なんとも、のどかな田園風景。
さて敷地へと入りましょう。
石段を上がり、鳥居を抜けます。
途中、こちらの案内板も↓
そのまま少し行くと、現れたのは下の道しるべ。
そしてその先にあるのは一見参道とは疑わしい雑な道。
本当にこの先ですか??…………ありました!
少しは整備の行き届いた階段。そして目的地(??)のようです。
拝所はサラッとしてますね。
それほど「厳か」とも言い難く、「ひっそり」という感じでもなく。
真偽は如何に、という印象でした。
さておき、続いて「能褒野神社」を参りましょう。
戻りしなに見つけたのですが、これは一体…
能褒野墓の飛地陪塚「は号」だそうです。
まだまだ不勉強。。
その奥に見えるのが神社の鳥居、行きましょう。
こちらです↓
拝殿まではうっそうとした森林を貫く参道。
人気もなく、少し幻想的で
しばし清々しい居心地の良さに浸ってしまいました。
パワーチャージもできたような。
↑参道の脇には「忠魂碑」もありました。
奥まで到達。
もうひとつの鳥居をくぐれば拝殿です。
すぐ脇のあたりには
「山神」「水神」と刻まれた石碑も祀られています。
側には「連理の榊」の案内板も。
敷地一帯はこんな様子で、整備はされているのでしょうが、
ぞんざいと言いますか、捨て置かれたような
ほったらかし感がぬぐえません。
うーーーん…
物語の一節に信憑性を持たせる演出の域??くらいとしか。
霊に精通しているということもないので
真偽は不明なままに、またひとりごとが漏れ出しますが、
「本当にこの地でお亡くなりになりましたか?」
本人を感じることが叶うなら
直接問いかけてみたいものです。
ともあれ、私には安らぎのある心地よいスポットでした。
ところでもう少しだけ、まつわる話を。。
説話もきちんと紹介しておきましょう。
そもそも「三重県」、地名の由来といえばヤマトタケルノミコト。
「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」
意味は「私の足は、三重にがくがくと曲がってしまった。たいへん疲れた。」の言葉から、
この地を『三重』と呼ぶそうです。
こうおっしゃった背景は日本神話、
「ヤマトタケル-望郷の歌」エピソードに含まれ
ざっくりまとめますと、
東征の帰途、婚約者(ミヤズヒメ)のいる尾張に立ち寄った後、伊吹山の神と戦ったことにより、病の身となりました。そして弱った体で大和に帰る途中の能褒野にてお亡くなりになりました。
というお話の道すがらの出来事です。
*「望郷の歌」はコチラ(第9章:望郷の歌-英雄の最期)でみつけました。
もうひとつは四首からなる「大御葬歌」。
ヤマトタケルの葬儀の際に歌われ、
以来伝わるこれら四首の歌。
現在に至るまで、天皇の大葬の時には
今なお歌われているそうです。
こちらは「古事記」に描かれてます。
*「大御葬歌」はコチラ(ヤマトタケル-大御葬歌考:その1)でみつけました。
「古事記」「日本書紀」でしか知りえない人物像。
でありながら二つの歴史書が描くヤマトタケルは全く同じでもない。
どこに真相があるのやら。。まだまだ分からないことだらけです。
この先すべてが明らかになることはあるのでしょうか?
お読みいただきありがとうございました。
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